街は変わった。だが変わらないものがある。
広島市で被爆直後の姿をとどめ、核兵器の惨禍を伝える原爆ドーム。周囲の光景を木枠の車窓が額縁のように切り取る。現役で走るこの路面電車も、原爆の変わらぬ「生き証人」だ。
広島電鉄(広島市中区)が所有する「650形」。昭和20年8月6日の原爆投下時、市内の各地で被爆したため「被爆電車」と呼ばれる。昭和17年に5両が作られ、レバー操作の空気ブレーキなど最新の技術が搭載された。今も3両が走行している。
当時は徴兵で男性が減少。家政女学校に入ると女学生でも電車運用に関わることができた。広島市に住む増野幸子さん(90)もその一人だ。大型の650形を運転できたときは喜びが増したという。
そんな増野さんにも「あの日」が待っていた。
広島電鉄の被爆電車、650形651号(中央)。650形は昭和17年に5両が作られ、3両が今も現役。主に平日朝の通勤時間帯や平和学習などで使われる=広島市中区(大西史朗撮影)
爆心地から2.キロの寮で休んでいると、爆風で割れたガラスが背中一面に突き刺さった。右足甲にも熱線で大やけどを負った。
ガラス片は114個。今も数個が背中に残る。寝返りをうつときの痛み、そして「あんな苦い経験は思い出したくない」という心の痛みは続いている。
原爆投下後、路面電車はわずか3日で市内西部の己斐(現在の広電西広島)~西天満町(現在の天満町電停付近)約1.2キロが再開。被爆車両も修繕され再び走り始めた。直後、広島は「75年は草木も生えぬ」と言われた。この夏であれから75年が経つ。当時の予想は大きく覆った。
増野さんはときどき650形に乗ることがある。ああ懐かしい、また運転したい-。そう思うのは、復興と繁栄を支える平和が続いてきたからだ。
街は変わった。だが変えてはならないものがある。
筆者:大西史朗(産経新聞写真報道局)